パリテ通信第

 

「中絶の自由」が憲法に書き込まれた日-2024年国際女性の日


 「勝利」、「歴史」、「自由」…。2024年3月5日、これらの文字が仏主要紙の1面に踊った。人工妊娠中絶(IVG)の自由がフランス第5共和国憲法に明記されたことを祝してのことである。これは世界でも初めてのことなのだそうだ。この憲法改正には、どんな背景や意味があったのだろうか。憲法改正が決まった直後となった3月8日の国際女性の日のパリの雰囲気もお伝えしたい。

 

米最高裁、判例変更の衝撃

 

 配偶者の同意など問題がなくはないが、妊娠中絶が文化戦争の争点とはなららない日本とは異なり、欧州のカトリック圏では宗教的な背景により、中絶への抵抗が非常に強い。フランスでも1975年に合法化されるまでは、中絶は重罪で懲役刑の対象、実施した医師も同様であった。合法化までに、多くの犠牲が払われた。1970年代には衛生条件の悪い闇中絶で、毎日一人の女性が命を落としていたという。女性解放運動や有名女優たちが中絶経験を公表した「343人のマニフェスト」[i]など、歴史に残る数々の闘争を経て、中絶は合法化されたのである。だから、中絶の自由がはっきりと憲法に記されたのは重い意味がある。

 

とはいえ、合法化されたのは50年近くも前のことである。なぜ今になって憲法に?と思うのも不思議ではない。実際、この憲法改正の話が持ち上がった時、中絶を憲法典に書き込んでも何の意味もない、という主張がされた。

 

その背景には、2022年に米国の連邦最高裁が、中絶の権利を認めた1973年の判例を覆した衝撃がある。この判例変更以来、米国の州の中には、中絶を全面的に禁止する州も多数出現した。女性のリプロダクティブライツに、以前には想像できなかったような深刻な打撃が加えられつつあるのである。米最高裁は、中絶の自由を認めてからおよそ50年も経ってこれを反故にしたのである。この事実はフランスでは衝撃を持って受け入れられた。

 

また中絶は、EU域内のほとんどの国で合法だが、ポーランドやマルタのように中絶を非常に厳しく制限・禁止している国もある。欧州人権条約には、中絶の権利を保障する条項はなく、同条約の履行を監視する欧州人権裁判所の判例もそのような権利を確立していないという状況にある。いろいろな手法を尽くして、妊娠中絶に過酷な制限を科す法律をプライバシー違反とすることはあるが、妊娠中絶を権利としては確立していない。

 

他方、フランスの憲法裁判所である憲法院は、妊娠中絶を憲法上の自由として認めている。しかし、欧州でもポピュリズムへの台頭は懸念されている。米国の後退は、保守派の判事を指名したトランプ大統領のいわば置き土産である。米国で起きたようなことはフランスでも起きうるのではないかという懸念は、急速に強まった。

 

行き詰まりから、奇跡の両院通過

 

2022年6月以降に提出された議員発案の憲法改正案の数は6。保守派が多数を占める元老院(上院)は初め、妊娠中絶を「権利」として確立することを明示する表現に賛成することはなかった。2022年秋に提出された6件目の議員提出法案も、妊娠中絶の権利性やそれへのアクセスの実効性を憲法典に明記しようとするものだ。しかしこの時元老院は、これを否決して廃案に追い込まず、大幅に修正して採択した。この内容は、政府提出法案と引き継がれる。

 

やや細かい話になるが、この修正案は、中絶を憲法典の中で権利として謳いあげるのではなく、「中絶の自由が行使される条件は国会の定める法律による」ことを明示するという趣旨の文言を、国会と行政府の権限配分を定める憲法34条に追加するものだった。言い換えれば、新たな権利を作り出そうというのではなく、あくまで中絶の自由がすでに憲法上のものである現状を確認するにとどめたことが奏功し、コンセンサスが成立したのである。

 

妊娠中絶の憲法化を約束しながらここまで傍観してきたマクロン大統領も、ここへきて政府提出法案で議員立法の内容を引き継ぐことを決定した。上院で成立した妥協案をベースにした政府提出法案は、意外なことに圧倒的多数ですんなりと両院を通過した。いつもなら揉めに揉める国会で、右から左までのコンセンサスが成立するという一種の奇跡が起きたのである。

 

ベルサイユに漂った一体感

 

両院を同一の文言で通過した政府提出の憲法改正案は、両院の合同会議において有効投票の5分の3の特別多数で採択されなければならない(憲法89条)。しかし先行した各院での票数を考慮すればそれはまったく問題ではなかった。実際に、この憲法改正案は3月4日に問題なく採択され、憲法34条には、「法律は、妊娠中絶に頼るという女性に保障された自由が行使される条件を定める」という一文が挿入されることが決まった。

 

この日、ベルサイユ宮で行われた合同会議は極右の登壇時に多少ざわついた例外的瞬間を除き、荘厳なセレモニーと言える進行ぶりだった。